「戦車男」撮影は奇跡-天安門事件25年でカメラマン語る
2014 年 5 月 29 日 14:53 JST
ワイドナー氏が撮影した「戦車男」の写真
写真家のジェフ・ワイドナー氏は、1989年6月5日に中国・北京の天安門広場近くで、戦車隊の前に立ちはだかった有名な「タンクマン(戦車男)」の写真を撮った人物だ。天安門事件では民主化運動をする学生たちが弾圧され、世界に衝撃が走った。
当時AP通信のカメラマンだったワイドナー氏は、事件から25年になるのを前に、中国を最近再訪した。当時撮った写真の展覧会を香港で開催するためだ。同氏はウォール・ストリート・ジャーナルに対し、1989年に撮った「戦車男」以外のあまり知られていない写真、近く香港で開催される追悼式典、それに天安門事件以降の中国での体験を語った。
ワイドナー氏 Corinna Seidel
――あなたは香港で毎年6月4日に行われている天安門事件の追悼式に出席する予定だが、出席することについてどう感じているか。
信じられない光景になるだろうと思う。ここに来る前に、極めて慎重に考えたが、事件後25年を経て、そうすることが正しいように思えた。25年前、信じられないようなことが起こった。何千人ものデモ参加者が街頭に出て、民主主義のために戦った。
それは当時ニュースになる大事件だったが、個人的にも影響を受けた。私は殺されかけた。ジャーナリストは多くの場合、偏見を持たず、中立であることが求められるが、同時にわれわれは人間でもある。私は25年前の事件のその後に非常に高い関心を持っている。とりわけ、ここの一般市民の反応を見てみたい。
「無名の反逆者」カメラマンが写した天安門事件
――あなたが撮った「戦車男」の写真を、同じ現場で撮られた他の写真数枚と比べてどう思うか。
それら全てにそれぞれの趣(おもむき)があるが、私が撮った写真にランプ(街灯)が入っていた点が気に入っている。これが凝縮感と深みを与えている。
この写真を見ると、私がこの写真を危うく撮り損ねそうになったことを思い出す。私は自宅の壁にさえ、この写真を飾っていない。なぜなら、取り損ねそうになったことを思い出すたびに身震いするからだ。シャッター速度は余りにも遅くて、自動カメラは適切なシャッター速度に調整しようとしていた。シャッター速度30分の1秒で800ミリレンズで撮影する場合、これほど長い焦点距離の撮影は不可能だ。この写真が撮れたのは奇跡だった。
――これらの写真とネガをどのように保存していたのか。
これらの写真がここにあることさえ奇跡に近い。多くのネガは何年もの間に失われてしまったが、いくつかのネガのコピーをとってあったので、多くを生き返らせることができた。フルカラーで復元できたのはつい最近だ。
――「戦車男」の写真以外で、天安門事件当時に撮ったお気に入りの写真はあるか。
歌う女性警官の写真が気に入っている。当時は人々がストレスを抱え、怒りっぽくて不機嫌になっていた。そんな中で、ある女性警官が多少なりともストレスを和らげていた。子供たちがやって来て、警察官たちに水を渡すこともあった。警察官の中にはデモ隊に同情的な人も一部にいたが、それでも彼らは職務を遂行しなければならなかった。そこには、何か魔法のようなことが起こりつつあるという希望のような感情があった。しかし、みな事態がエスカレートしつつあることを心配していた。私は6月3日の夜、APの別のカメラマンとサイクリングをしていた際、「嫌な予感がする」と言ったのを覚えている。
――その後、北京を訪れたか。
2009年6月、英国放送協会(BBC)が20周年のドキュメンタリーを製作するということで、北京を訪れた。それは自分にとって感傷的な体験だった。建国飯店(ホテル)に滞在することを決めた。私が1989年にも滞在したホテルだ。竹、バーにある椅子など、当時とほとんど同じように見えた。もちろん、弾痕のあったガラス窓は交換されていたが、そこには心地よい何かがあった。当時からそこが何も変わっていないことに伴う心地よさだ。私は感傷に浸りながら、天安門広場まで歩いていくことを決めた。かなり遠かった。非常に多くの変化に気付いた。スターバックスも、西洋流のレストランも何軒もあり、全く違う場所になっていた。多くのホテル・スタッフは20年前よりずっとフレンドリーになっていた。
世界中を周りながら『路上の愛』をテーマに外国のストリートで出会った人々の人物写真を撮り続けているカメラマン。
東日本大震災では写真洗浄のボランティアをしていたカメラマン。
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六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺したとの報告がある)し、多数の死傷者を出した事件である。
解説
統一がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射し、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という。
衝突のあと、中国当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、自国の周辺でのほかの抗議も厳重に取り締まり、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。天安門広場に集まった抗議者たちに対して公然と同情した総書記の趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任されて一党員となり、自宅軟禁下に置かれた。
抗議者に対する中国共産党政府による武力弾圧に対しては、広範な国際的非難が集まった。犠牲者の数は後述のように諸説あり、正確な数字は分かっていない。
死傷者
中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については上記の中国共産党による報道規制により客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。 また、約300名の活動家がパリに亡命した。
またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている。
江沢民の対日政策は、一貫して反日・強硬路線を採った。江沢民は、天安門事件で経済制裁を受けたうえに東欧革命やソ連崩壊の影響によって自国の共産主義政権が崩壊することを恐れ、国民に対して中国共産党による統治の正統性を再確認させるとともに、政治への不満から目を逸らせる為に愛国主義教育(反日教育)を推進したのである。
天安門事件直後の1989年6月21日、日本政府は第3次円借款の見合わせを通告し、フランスなどもこれに応じた。7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)でも中国の民主化弾圧を非難し、世界銀行の中国に対する新規融資の延期に同意する政治宣言が発表された。円借款自体は1991年8月の海部俊樹首相の訪中によって再開されたものの、中国が国際的孤立から脱却するには、天安門事件のイメージを払拭する必要があった。
そのために江沢民政権は、1992年10月、今上天皇・皇后を中国訪問に招待した天皇訪中によって日中の友好関係が強調されたが、江沢民政権は1994年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「抗日戦争勝利50周年」にあたる1995年から、徹底した反日教育を推進していった。